お礼のことば

OB会名誉会長 水野 俊彦

10月11日(日)OB会の多数の皆様が、遠くは関西から、名古屋地区から、また関東一円からお集まり頂き、私の「米寿の祝」をして戴き、身に余るご厚志と心より感謝しております。当日は立派な会場で、時間が足りないくらいの、暖かい楽しい雰囲気でした。

私は、皆さんが卒業後それぞれの分野で活躍された積もる話を、伺うのを楽しみにしておりました、これは物理的に無理な話でした。OB総会等の機会に譲りたいと思います。でも、むかし懐かしい皆さんの元気なお顔に接し大きなエネルギーを戴きました。

私とモー研との付き合いは、Ford34式V8エンジンを搭載した「柏」「桜」「松」号を入手して下さった永廻先生も所属する物理化学教室に勤務、既に運転免許を取得していた関係もあって、先生のお供をする事から始まりました。

新制大学に移行した直後、私は昭和26年に物理化学実験の授業を化学、化学工学、無機、高分子化学の学生を対象に担当する事となりプールサイドの木造2階建ての建物を使っていて、当時はトンネルを抜け、桜並木の坂を登るのが部車の一般的なルートで、坂を登れずエンコすると、この建物が「関所」のような存在で、修理を応援したものです。

昭和28年頃、大学はサークル活動を教育活動の一環と位置づけ、部長、監督の制度に移行し、「自動車部」の名称となり、初代監督を委嘱されたのが、立馬君が主将の時だと思います。

当時は、戦後の自動車時代の幕開けで、全日本学生自動車連盟も発足、学生が時代の牽引役でした。しかし各大学も車は古物で、レースに熱中、道幅は江戸時代、悪路、事故や故障が続出し「交通戦争」と言った新語が誕生したのもこの頃でした。

一方、著名校での死亡事故も多くなり、これらの対策を検討するため、部長、監督会議を市ヶ谷の「科学会館」で2回も開かれ出席しました。

監督の初仕事は、死亡事故ゼロとするシステムに取り組みました。(1)学内ライセンス制度、(2)整備工場を完備、車の構造、機能、整備を勉学し、機能に応じた運転法の確立。

この2点は現在も引き継がれ、死亡事故ゼロの歴史を延長して居ることが、私の誇りです。当時、現岩崎OB会長の提案による「全車任意保険」に加入して大学に迷惑をかけることもなく、また失われた練習コースを復活する運動を沼田幹事が在学中企画、約10年後事務局のお骨折りで、私の退官した年に完成、部活の安全運転に連動していることと信じています。

また、歴代の部長の先生方は、学内における自動車部のポテンシャルの向上に大いに貢献され只々感謝あるのみです。また、3代目の部長をお願いした建築の清家清先生には長い間懸案だった、部室や工場の建築、工場前のコンクリートの作業広場の建設を気易く引き受けて下され、完成させて頂いたことは特筆すべき歴史でした。

私は、停年後20年、民間企業でシール技術の研究を手掛け、友人も多く、安い費用で、リフトや工作機械を入手、部に寄贈することが、楽しみでした。

現在の希望として、多くの部員を育成する為に貢献した「柏」号の保存、富士重工から寄贈されたスバル450の処遇です。柏は金井氏が、スバルは五味氏が担当して下さっております。OB諸氏も暇を作って部に顔を出して下さい。

そこで、私が車から学んだ健康法を一つ。

動かさないとダメになる。(歩行や運動)

適度に充電しないとバッテリーがあがる。(休養+栄養)

ハンドル操作。大きく外れないように、小まめに操作する。(体温、血圧、脈拍を絶えず細かく定期的にチェックし病気の早期発見)

これからはお互いに諸事、無理をしないで、健康第一で頑張りましょう。

(2009,12,)

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